2025年 02月 28日
あとがき
2025年 02月 22日
230.[最終回]現在の中国
ミニコラムの続きです。
鄧小平による改革開放政策以降は中国は一気に経済的に豊かになりました。鄧小平は「先に豊かになれるものから豊かになりなさい。豊かになったものは貧しいものたちを助けなさい。そうする事で皆が豊かになれます」という先富論(せんぷろん)を唱えました。そしてこれが半分実現しました。つまり、先に豊かになれる人たちは大いにお金持ちになりました。会社を経営する資本家などですね。他にも支配層である共産党員も豊かになりました。都会に住む人たちは資本主義の理論でお金持ちになれた人とそうでない人に分かれます。貧富の差が激しくなったのです。しかし、地方の農村部は改革開放による経済的な恩恵をあまり受けられませんでした。だから農村部は多くの人々が軒並み貧しいままだそうです。社会体制は共産主義ですが、経済体制には資本主義を取り入れました。その結果、30年ほど前の日本とよく似ている経済状態になってきたのです。つまり、土地などの成金が増えてきたが、バブルがはじけて勢いのあった経済が失速してしまったのです。これを「かつてのライバル国である日本と同じような道を歩んでしまった。そして日本と同じような失敗を経験しようとしている」という意味で自虐も込めて「日本病」と言われるようになりました。しかし、それでも中国の経済発展は目覚ましく、GDPでは日本を追い越して世界第二位の経済大国に躍り出ました。さらに、製造業に力を入れた事で「ものづくり」がとても上手になりました。だから、中国は「世界の工場」と言われるようになりました。色んな製品は中国製が買われるようになります。安い人民元と安い人件費もプラスに働きました。このため、現在となってはアメリカにしろ、日本にしろ、中国製品なしには生きていけないほど中国に経済的に依存する様になりました。一時期は「安かろう悪かろう」の代名詞だった中国製品も外国製品のよいところを取り入れて品質も上がっています。品質が良くて値段の安い中国製品が世界を席巻しているのです。とはいえ不安要素もあります。中国は人口が増えすぎたために長年「一人っ子政策」を行っていました。だから、中国の人たちは「子供は一人。孫は一人。イトコはいない」という奇妙な状態になってしまいます。極端な少子化になってしまったのです。今後、極端な高齢化社会が予測されています。現在は一人っ子政策は取りやめになりました。しかし、長く続いたこの政策で「子供も孫も1人しかいないなら大切に過保護に育てる」という事が当たり前になってしまいます。子供たちは兄弟もイトコもいないので気を使う存在がいません。ワガママな子供が増えてしまって「小皇帝」と言われるワガママな若者に成長してしまったのです。彼ら彼女たちは大切に育てられたので大学まで進学するのが当たり前になっています。手厚い教育で優秀にはなったのですが、安い人件費で働いてくれる若者が極端に少なくなりました。人件費の高騰で「安くて高品質な中国製品」を作る事ができなくなっているのです。しかし、これに対抗するためか、中国では研究に対する投資が増加しています。今までは先進技術については欧米が先駆者でありアジアは常に追随する形でした。しかし、中国は「いつまでもアイツらに先を走られてたまるか。我らがアジアの手本となって欧米を追い越してやる」という意気込みになっています。だから外交姿勢にも「アメリカに負けてたまるか!」「アジアのリーダーは日本ではなく我々だ!」という意識が強く出ているのです。軍備も増強して宇宙開発も強化している中国。大きな躍進期と、苦しい停滞期が同時に来ているような状態なのです。かつては中華文明という憧れの存在で世界中の尊敬を集めていた中国がこれからどのような未来に向かうのかは世界中の注目するところです。
2025年 02月 21日
229.中華人民共和国の成立
ミニコラムの続きです。
近代中国を長きにわたり支配していた清(しん)国は支配層の腐敗と軍の弱体化で支配力を失います。そこで清国を倒したのは辛亥(しんがい)革命を起こした集団でした。辛亥革命の成果は一時期、強大な軍事力を持つ袁世凱(えんせいがい)に奪われます。さらに辛亥革命の後、袁世凱が帝政を復活させようとたくらみます。しかし反対派が多く内乱が起きます。これを護国戦争と言います。民衆からの支持を得られなかった袁世凱は失脚しました。袁世凱の死後、国民党により中華民国が成立しました。国民党は日本の影響を大きく受けていますが、同時期にソ連の共産主義の影響を受けた集団も登場します。こちらは共産党と呼ばれます。当時は、中国は日本からの侵略を受けている時期であり、仲の悪かった国民党と共産党は「我々の敵は同じ日本軍だ、今だけは共に戦おう」と、手を結びます。これが国共(こっきょう)合作です。この時、国民党のリーダー蒋介石(しょうかいせき)は必死に日本軍と戦います。しかし、共産党の頭目毛沢東(もうたくとう)は「戦いは国民党に任せておけ」と言って国民党と日本軍の共倒れを狙います。期待通り両者は疲弊し、日本軍は撤退します。日本が居なくなると国民党と共産党は戦いを再開します。当初は財力や兵器に勝る国民党が共産党を圧倒しました。共産党は各地を逃避行する事になります。これが長征(ちょうせい)です。逃げ回っているうちに不思議な事が起きます。日本軍との戦いで疲弊した国民党は徐々に力を失います。更に、国民党内で汚職が横行したことで、民衆からの支持も失います。逆に共産党は各地で地道な啓蒙活動を行ないました。「汚職まみれの国民党よりも、俺たち共産党の方が頼りになるぜ!」と宣伝してまわったのです。共産党による草の根活動でじわじわと民衆の支持を得ていきます。これにより形勢は逆転します。共産党が採用したヒット&アウェイの戦術(相手が攻めてきたら逃げる。相手が疲れたら攻める)も功を奏しました。共産党は国民党を倒します。国民党は台湾に逃れて地方政権を樹立します。共産党は中国本土で、中華人民共和国を設立しました。なお、中華人民共和国の建国の元勲には以下の様な人物がいます。①周恩来(しゅうおんらい):毛沢東の最も信頼できる側近の一人であり、党の外交政策を担いました。毛沢東は疑り深い性格でした。能力ある部下を疑い次々と粛清したのです。しかし、周恩来は毛沢東の信頼を最後まで失わず粛清を免れました。このため「不倒翁(ふとうおう)」(起き上がり小法師)の異名がついています。②朱徳(しゅとく)中国共産党の創設メンバーであり長征に参加しました。軍事に才能があり「勝てるはずがない」と思われていた長征を巧みなゲリラ戦術で勝利に導きました。その後は、人民解放軍(中国軍)の総司令官として、国民党との戦いの勝利に貢献しました。建国後は、中華人民共和国の副主席を務めました。③劉少奇(りゅうしょうき)中国共産党の理論家として、党の理論構築に貢献しました。また、抗日戦争と国共内戦で重要な役割を果たしています。建国後は、政治家として中華人民共和国の国家主席を務めました。しかし、文化大革命の中で失脚し非業の死を遂げます。④林彪(りんひょう):文化大革命期に毛沢東の有力な支持者の一人でしたが、のちに毛沢東に疑われた事で身に危険を感じてソ連に亡命を図ります。ソ連へ向かう途中で飛行機が航空事故を起こして死亡しました。⑤鄧小平(とうしょうへい):共産党の実務派幹部でしたが文化大革命により失脚してひどい目にあいました。しかし、毛沢東の死後に復活します。後の改革開放政策を推進します。そして中国の独裁者となって経済発展を牽引しました。彼の活躍もあり中華人民共和国は発展します。このような人材が毛沢東を支える事で中華人民共和国は中国帝国の後継者となったのです。ちなみに、一時期は毛沢東が「失いかけた権力を自分の手に取り戻すため」に起こした文化大革命という事件で国内は大きく混乱しました。しかし、鄧小平などの尽力もあり、文化大革命後の混乱を克服し、貧困を乗り越える事に成功します。1970から1980年代あたりには中国国民は自転車と人民服の人ばかりでした。しかし、それ以降の時代は鄧小平が起こした改革開放により豊かになりました。生活水準もほかの先進国とかわらないレベルにまで高まります。そうして、現在に至ります。
2025年 02月 20日
228.蔣介石と国民党
ミニコラムの続きです。
蔣介石(しょうかいせき)は商人の家に生まれ、幼くして父を亡くします。母子家庭で育ちましたが、塾に通うなど手厚い教育を受ける事ができました。その後、日本へ留学して孫文(そんぶん)と出会います。そして、孫文と意気投合して熱く語り合います。蔣介石は孫文の革命に対する考え方に感銘を受けます。そして、帰国後、辛亥(しんがい)革命実行の一員になりました。妻子には遺書を残す覚悟で革命に挑み、武装蜂起を成功させます。その後、帰国した孫文が新国家の中華民国の大総統に選ばれます。彼も感慨無量でした。しかし、その後、大総統は軍事力を持った袁世凱(えんせいがい)に変わります。中華民国は野心家の袁世凱に乗っ取られそうになるのです。袁世凱は皇帝を目指しますが周りの大反対にあって断念します。結果的に袁世凱は自滅したのです。しかし、この混乱で孫文も蔣介石も日本への亡命を余儀なくされます。その後、孫文は東京で中華革命党を結成します。蔣介石は孫文の右腕として活躍することになります。蒋介石の奥さんは宋美齢(そうびれい)です。そして、孫文の奥さんは宋慶齢(そうけいれい)です。奥さん同士が姉妹でした。つまり、孫文と蒋介石は義理の兄弟でもあったのです。ちなみに、彼女達姉妹は3姉妹でした。一番上の姉は宋靄齢(そうあいれい)と言います。長女である彼女は孔祥熙(こうしょうき)という実業家の富豪と結婚しました。いずれも有力者である夫をもつ彼女たちは「宋家の三姉妹」と呼ばれます。映画化もされました。ちなみに、宋家の三姉妹は浙江財閥のお嬢様でした。つまり、蒋介石は浙江財閥という資金面での後ろ盾を得たのです。蒋介石が革命活動を続けるうちに、「あれ?蔣介石には軍事的才能があるんじゃね?」という事に周りが気づき始めます。この為、蔣介石は革命家だけでなく軍人としての活躍を期待されるようになります。そして、ソ連を訪問するとソ連の軍事も学びます。その後、孫文は国民党を結成します。蔣介石は軍人を育成する士官学校の校長から軍司令官を得て、孫文死後は国民党の最高権力者の座に上り詰めます。蔣介石は当時厄介なライバルだった中国共産党を倒そうと考えていました。しかし、当時の有力者だった張学良(ちょうがくりょう)に西安で拉致されてしまいます。張学良は中国東北部の有力者で馬賊だった張作霖(ちょうさくりん)の息子でした。そして、張学良は中華民国の有力な軍人でもあったのです。張学良は「中国共産党よりも日本の方がもっと恐ろしい敵だぜ!中国共産党と一緒に日本と戦うべきだ!共闘を約束するならば解放してやる」と拉致した蒋介石を脅したのです。張学良は日本軍から父親を殺されていました。しかも爆破テロという残忍な手口で殺されたのです。だから、日本軍に恨みがあったのです。蔣介石には「中国共産党を倒して国民党が中国を統一する」という目標があったのです。しかし、それを渋々諦めて、中国共産党と国民党で手を組んで日本軍と戦うことを決めました。これが「国共合作(こっきょうがっさく)」です。中国共産党と国民党の共同戦線で見事日本軍を撃退する事に成功します。ちなみに、張学良は「蔣介石を監禁して脅す」という余りにも乱暴な手段を取ったので罪に問われました。死刑は免れたものの長期間軟禁される事になります。しかし、張学良の強引な手段により国共合作が成立しました。仲の悪かった中国の2つの軍団が協力したのです。日本で言うところの薩長同盟のような状態です。これで武力は倍増して日本軍を倒す事に成功しました。そして、蒋介石は日本軍を倒した後に、中国に大量に流入していた日本人をどうするかという問題に突き当たります。ここで蒋介石は「恨みに報ゆるに徳を以てす」と述べました。これは古代中国からのことわざです。「恨みに暴力で報いても憎しみの連鎖になるだけだ。恨みに対しては寛大な心で許しを与える事が”徳”のある人間の取るべき道だ」と言ったのです。そして、中国国民と世界の人々に対して、日本人に危害を加えないように依頼しました。このため終戦時には二百数十万人ほどいた日本人は、国家的や集団的な危害を加えられることなく日本に帰国することができたそうです。このような経緯もあり、蒋介石は日本からは今でも尊敬の念で扱われています。なお、蒋介石は、日本軍を追い払った後は、中国共産党も打倒して国民党により中華統一を果たすことを目指します。それが孫文と共に抱いた蔣介石の夢だったのです。しかし、これは失敗します。当時の国民党は幹部の汚職が多発して民衆の支持を得られなかったのです。代わりに支持を得た毛沢東率いる中華人民共和国が中国本土の統一を果たします。蔣介石達、国民党は敗れて台湾に逃げました。台湾では鄭成功(ていせいこう)を見習って独自政権を樹立して統治に成功します。蒋介石は死の間際に後任を長男の蔣経国(しょうけいこく)に託します。しかし、蔣経国以降、台湾は民主化しました。台湾総統は選挙で選ばれるようになり、現在に至ります。
2025年 02月 19日
227.孫文と辛亥革命
ミニコラムの続きです。
孫文(そんぶん)は清朝末期に農家に生まれました。父を早くに失います。しかし、兄の計らいでハワイに留学する事ができました。その後、マカオで医者になります。海外に留学していたという事は、早くから西洋知識に触れる事ができたという事です。この為、広い視野を得る事ができましたし、祖国清国の古臭さを知ることができました。そして、「清朝の古臭い考えではダメだ。そもそも西太后が老害をまき散らしていて国を私物化しているじゃないか。こんなダメ王朝は倒さなければいけない」と、改革思想を持つようになります。孫文は行動は早いのですが、かなりの向こう見ずでした。日清戦争直後に武装蜂起を計画します。しかし、密告で失敗して日本に亡命します。「もうちょっと慎重に準備しないと早死にするよ?」と心配したくなるほどの行動派でした。しかし、日本では「中国の古い体制をひっくり返そうと行動するなんて勇気ある若者だ」と歓迎されます。孫文は、日本人女性を側室に迎えます。更に愛人まで作ります。女性関係までも行動派でした。孫文は日本で終生の同志となる蔣介石(しょうかいせき)と出会います。そして「中国は今は満州族の植民地だ。清国は滅ぼして漢民族国家として独立すべきだ」「そもそも、満州族の変な髪型(辮髪:べんぱつ)を強制されるのは御免だ」という事を熱く語り合います。その後、孫文はアメリカ→イギリスと渡り歩き、革命資金を調達します。どこまでも腰の軽い行動重視の人だったようです。孫文は海外からも中国に向かって「革命せよ!」と連呼しました。既に行動を起こしてお尋ね者の孫文の言葉には説得力がありました。影響を受けた中国国内の有志が蜂起を起こします。騒動は拡大して、辛亥(しんがい)革命にまで発展します。革命が一定の成功を収めると孫文は帰国します。当時、革命軍は武装蜂起には成功したものの「誰をリーダーにするよ?」と悩んでいた状態だったのです。「やる事は無茶苦茶だけど、主張と行動に一貫性がある。命知らずの孫文」は人気がありました。そして彼は新国家である中華民国の臨時大総統に迎えられました。孫文は三民主義(さんみんしゅぎ)をスローガンに掲げます。つまり、民族(異民族の排除と漢民族の復権)・民権(自分たちの国を建てる)・民生(平等な社会を作る)の三つを重要な課題として挙げました。しかし、建国したばかりの中華民国は支持基盤が不十分でした。さらに、軍事力が不足していました。やむを得ず、当時、清国の軍事高官で実力者だった袁世凱(えんせいがい)を仲間に迎えます。「袁世凱って敵軍の巨魁でしょ?寝返ってくれるの?」と不安だったもの。あっさりと寝返ってくれたことにはビックリしました。しかし、これで清朝を倒す軍事力を得る事ができました。しかし、逆に考えると清朝に高い給料と高い地位をもらっておきながら袁世凱の裏切りは褒められた事ではありません。袁世凱側の立場だと「これまで清朝の将軍としてやってきたが、清朝はもうダメだ。西太后が害悪だが誰も手出しができない。だからといって俺は清朝とともに滅びるのはイヤだ。最近ブイブイ言わせている革命軍に仲間になったふりをして参加しよう。そして、そのまま軍団ごと乗っ取ってやる」という考えだったのです。孫文は「革命が成功するならばやむなし」と袁世凱に大総統の座を明け渡します。ずる賢い袁世凱は、そのまま中華民国の実権を革命家達から奪ってしまいました。袁世凱は、更に「俺は皇帝になるぞ!だって中国ってずっと皇帝が居ただろ?だから中国は皇帝制の方が相性がいいんだよ」という理由付けで中華帝国を作ろうとします。しかし、あまりの自分勝手な理由だったため反対多数で失敗します。袁世凱は失意の中で亡くなります。袁世凱の死後、中国は群雄割拠の状態になってしまいます。孫文は今度こそ革命を成功させて自分たちの政府を作ろうとします。しかし、仲間内での対立などで失敗します。さらに似たような失敗を何度か繰り返すのです。結果的にどうしても彼が思い描く革命は成功しませんでした。仕方なく、孫文は再度日本に亡命しました。その後、日本による中国への侵略が勢いを増してきます。さらに同時期にロシアではマルクス主義が登場します。その結果、全く新しい『共産主義』という思想が登場します。やがてロシア革命が起こってソビエト連邦が成立します。この共産主義に毛沢東(もうたくとう)などの人物が影響を受けました。共産主義の影響を受けた面子で中国共産党が結成されます。孫文もソ連の支援で広東大元帥府の大元帥に就任しています。孫文は自分の立ち上げた国民党と中国共産党の統合を目指します。これは国共合作という形で一時的に実現しました。しかし、孫文は中華民国の中枢には戻らず同志の蔣介石に後を託します。結局、孫文は革命自体には熱心でしたが、その後の中国の政治には、ほとんど関わりませんでした。その代わり日本には終生深い関わりを持ち続けます。孫文は死期を悟ると、「革命は未だ成功せず」という言葉を残して亡くなりました。
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