2024年 09月 07日
65.雲台二十八将①
ミニコラムの続きです。
〇呉漢「ワシは呉漢(ごかん)という、後漢(ごかん)の呉漢だ。しかし、ギャクではないぞ偶然だ。ワシは貧しい家に生まれてな。小役人の職を得たが、客が法を犯してな。何故かワシまでお尋ね者になった。その後、劉秀(りゅうしゅう)様に仕える身になったのだ。鄧禹(とうう)のヤツがワシの才を見抜いてな。抜擢してもらったのだ。鄧禹は戦いは弱いが人を見る目は確かだからな。その後は、斬った。敵を斬ったのだ。斬って斬って斬りまくった。ワシにはそれしかできぬからな。平穏な日々などつまらん。だからワシは暇があれば常に武具の手入れをしておった。憎い奴は皆殺しがワシのモットーだ。なぜそんなに殺すかだと?復讐は生き甲斐だからな。それに、劉秀様は光だ、輝ける名君よ。ならば、影も必要であろう?劉秀様の手を汚さぬためにもワシは殺すのだ。」
〇賈復「俺は賈復(かふく)という。命知らずの剛毅な人柄だと劉秀様に愛されたものよ。劉秀様に仕えると武将として活躍してな。劉秀様が皇帝に即位した時は親衛隊長の「執金吾(しつきんご)」に任命してもらった。そもそも、劉秀様は若いころの夢として「仕官するなら執金吾、妻を娶らば陰麗華(いんれいか)」と言っていたのさ。陰麗華は当時の絶世の美女でのちの劉秀様のお后になられた。執金吾は若者たちの夢の職業だったのさ。親衛隊だから出で立ちも颯爽とカッコイイんだせ。名誉な事さ。俺は負けた事はないんだけど、最前線で戦うからケガが多くてね。ある時の戦で死にかけたのさ。劉秀様は「惜しい奴を無くした。賈復の奥さんは妊娠していると聞く。その子が女の子だったら我が息子の嫁にしよう。それがせめてもの償いだ」と言ったそうだ。しかし、俺は生きのびて復活したのさ。あんまり俺が敵陣に深入りして危険を冒すため、劉秀様はあんまり俺を手元から離さなくなった。無謀な奴と思われたんだろうな。「お前の武勲は俺がちゃんと見ているから心配すんな」と言われたもんさ。ありがたいことだけど寂しいね。
〇耿弇「私は耿弇(こうえん)と言います。父に従って劉秀様に仕える事になりました。当時は私も青二才。「御曹司のボンボンよ」と言われるのが嫌だったのです。だから、劉秀様の前でフカしたのです。「劉秀様が苦戦なさった王郎の領地。私が全部落としてみせましょう!」と。劉秀様は「若造が大きなことを言いやがって」とニヤリとしました。そして、私に任せると言ってくれたのです。私は燃えました。燃え上がりました。そして、後先考えずに戦ったのです。精鋭の騎兵を率いて電光石火の進軍を行い次々と城を落としました。そして斉全土を攻略しました。ほとんど私一人の手柄でした。武勲は甚大。興奮絶頂でした。しかし、私は気づいてしまったのです。私は数えきれないほどの命を奪ってしまった事に。戦いに夢中なあまり、私はあまりにも多くの人を殺してしまった。落ち込みました。そして、戦い方も変えました。敵も味方もなるべく殺さぬように。そして、私は将軍職は30台前半で引退する事になります。それ以降は劉秀様から相談を受ける顧問となったのです。
2024年 09月 06日
64.名君光武帝を語るのは誰じゃ?
ミニコラムの続きです。
私は劉秀(りゅうしゅう)様とは幼なじみなのです。そして、学校の同級生だったのですよ。あの慎重な劉秀様が反乱軍に身を投じたと知りびっくりしました。そして、会いに行ったのです。久しぶりに会う劉秀様はむっつりした顔で「センセイがお越し下さったのは、ワターシに仕えたいからかナ?」と問いかけてきます。私も切り返します「な~に。アナータがご威光を天下に広めるんでしょ?ワターシはちょいっと手柄を立てて歴史に名を残したいだけですナ」と答えました。そして二人とも大笑いでした。その時から私は劉秀様に使えるようになりました。劉秀様は兄の劉演(りゅうえん)様と同時期に挙兵されましてな。統率力の優れた劉演様と血統の優れた劉玄とが盟主の候補でした。しかし、劉玄(りゅうげん)がオヤブンになり更始帝(こうしてい)と名乗ります。挙兵当初は劉秀様は貧乏で馬も買えず、なんと牛に乗って挙兵されたとか。周りは笑いましたが劉秀様らしいですね。ですが、見た目おっとり系の劉秀様ですが実は天才なのです。私だけがそれを知っていました。それが発揮されるのは「昆陽(こんよう)の戦い」という大決戦です。なんと劉秀様は40万の王莽軍をわずか8千程度の軍で打ち破ってしまったのです。そりゃ王莽の軍もヒドいもんでしたが、10倍以上の兵力差をひっくり返すってのはまずありえない事なんですよ。劉秀様は本当に凄い!しかし、その後北方で群雄の王郎(おうろう)との戦いになります。その地で、劉秀様は懸賞金をかけられ命を狙われたのです。戦いも劣勢になり、劉秀様は私や王覇(おうは)・馮異(ふうい)ら僅かな部下と逃げ回るハメになったのです。時には野宿で焚火しながら少ない粥を劉秀様と分け合った時もありました。あの時は苦しかったなあ。しかし、やがて他の地方豪族を味方につけて、王郎を撃破しました。勢力も急拡大したのです。ビビった更始帝は劉秀様を呼び戻そうとしました。しかし、もう凡庸な奴の下風に立つ必要はナッシング。劉秀様は独立する事にします。そして、帝位について漢の再興を宣言したのです。後世では後漢(ごかん)と呼ばれる国で、劉秀様は後世では光武帝(こうぶてい)と呼ばれます。その後、更始帝軍はジリ貧になって赤眉(せきび)軍に敗北。ヤツは殺されます。その赤眉軍もジリ貧になってわが軍が吸収しました。劉秀様は中国のほとんどを手中に収めたのです。残るは、隴西(ろうせい)地域の隗囂(かいごう)と蜀の公孫述(こうそんじゅつ)のみ。隴西はサクっと攻略し、残りは蜀のみになりました。そこで、劉秀様は言ったのです。「人、足るを知らざるに苦しむ。既に隴(ろう)を得て、復た蜀(しょく)を望む 」これは「東部と北部をゲットしたら次は西部と南部が欲しくなる…人間の欲望って限りがないよね」って意味です。わが君は最後に公孫述を倒し天下を統一しました。「漢を復興するぞ」って息巻いた人物は歴史上たくさんいます。有名な劉備もその一人です。しかし、実際に成功させたのはわが君劉秀様だけなんですよ。あ?私ですか?私の名前は「鄧禹(とうう)」と言います。
2024年 09月 05日
63.光武帝は誰だ!誰だ!誰だ!
ミニコラムの続きです。
この中に、後日、前漢滅亡後の乱世を制し、光武帝として即位した人物がいます。その人は、滅亡した漢王朝を再興し、後漢を建国しました。光武帝は中国史上最高の名君とも言われています。さて、その人とは誰でしょうか?
◎呂母(りょぼ)さん
「あたしゃね、新国の役人に息子を殺されたのよ。だから、復讐のために自費で兵を集めたのさ。酒場の女将だったからね。若者たちに、ツケでいいから飲みなよ。変わりにあたしの息子の為に戦っておくれ。と言ったら大軍団が出来たのさ。アタシの作った軍団が赤眉軍(せきびぐん)という反乱集団に成長したのさ」
◎樊崇(はんすう)さん
「俺様が赤眉(せきび)軍を作ったんだぜ。ん?上の呂母さんは人を集めただけさ。俺は盗賊のリーダーだったけど、呂母さんの集めた軍団を吸収して大軍団を作ったのさ。『敵と区別を付けるために眉に赤い塗料を塗れ』って命令したのも俺さ。だから赤眉軍っていうんだぜ。一時期は反乱軍のリーダーだった更始帝の配下になったけどな、ヤツはけちくさくてな。怒ってまた独立したのさ。その後、勢力を盛り返して、最後は更始(こうし)帝を倒したんだぜ。俺がな!」
◎王匡(おうきょう)さん
「ワシは緑林(りょくりん)軍を組織したのだ。緑林山という場所が本拠地だったから緑林軍というんだぜ。緑林軍は攻めてきた官軍を打ち倒して一気に5万人の大軍団になったんだ。しかし、一時期は疫病のせいで解散する事になったがな。また再結成したのだ。劉演(りゅうえん)兄弟の軍とも合流して、さらに大軍になってな。更始帝をリーダーとした反乱軍として他の軍団と緑林軍とを統合させたのだ。そしてワシはでかい都市の洛陽を陥落させたぞ。」
◎王郎(おうろう)さん
「俺は元々占い師でな。王莽が漢帝国を滅ぼしたもんで、『俺は皇室の生き残りだ!』ってハッタリカマして成り上がったんだ。友達の劉林(りゅうりん)の協力があってな。劉秀(りゅうしゅう)にも『俺の味方になれ』って言ったのに無視しやがった。ムカつくから賞金首にしてやったぜ。そして、北方の地を平定すると俺は皇帝に即位したのさ。もう一度漢帝国を復活させたいだろ?俺が復興してやるぜって言ったら皆信じたんだぜ。」
◎劉玄(りゅうげん)さん
「余は全漢の皇室の血筋である。だから緑林軍の総帥として皇帝に即位したのじゃ。長安の支配者となったのじゃぞ。誰じゃ!余を凡庸で遊んでばかりの無能という奴は。戦いは臣下の役目じゃ。余の役目は由緒ある血統とあふれる徳であまねく民を従える事なのじゃ」
◎劉演(りゅうえん)さん
「オレは漢の皇族の末裔さ。人望があって。劉玄なんかより遥かに人気があったんだぜ。緑林軍の総帥をオレか劉玄にするかでモメたんだがギリギリの差で総帥になれなかった。劉玄みたいな凡庸な奴じゃないと意のままに操れないからって思った奴が多かったのさ。しかし、将軍としては宛(えん)を攻め落として天下に名を轟かせたんだぜ。王莽はオレの勇名を恐れて莫大な賞金首をかけやがった。そんな事にビビるものか。目指すは漢の再興だぜ!あ、下の劉秀はオレの弟な」
◎劉秀(りゅうしゅう)さん
「あ、はい。僕は上の劉演さんの弟です。よろしくお願いいたします。僕は勉強はできたんですけど、慎重すぎる性格が欠点でして。でもそれが逆に幸いして僕が反乱軍に参加すると『あの慎重な劉秀すら参加するのなら勝てる』って噂になり兵が集まったらしいですね。あ、僕も武将として活躍したんですよ一応『昆陽(こんよう)の戦い』で40万の敵を8千人で倒しました。ラッキー」
◎隗囂(かいごう)さん
「私は元々官吏として新王朝で働いていました。しかし、国が滅びてしまい。独立勢力を作る事にしました。私は人格者だと人に言われていました。ありがたいことです。だから、士大夫(したいふ)の方々は私を頼ってきたのです。更始政権が滅びた後の残存勢力も次々と私の元に集まりました。彼らを結集して中国西部に大勢力を築いたのです。中国南部を拠点にして、下の公孫述さんともたびたびバトルしましたよ。」
◎公孫述(こうそんじゅつ)さん
「ワシは元々役人じゃ。その当時からバチっと領地を統治してな。評判になったものよ。しかし、王莽が死んで国が崩壊した。だから、ワシは、中国南部の蜀の地である成都を首都にして独立政権を開いたのじゃ。後の世には、劉備という者もワシのマネをしたらしいの。上の隗囂とは何度もバトルをしたものじゃ。」
2024年 09月 04日
62.王莽登場「オ~モウレツ~」
ミニコラムの続きです。
前漢末期は皇太后の王政君(おうせいくん)とその一族が権力を握ります。その中から王莽(おうもう)という人物が登場します。王莽は儒教の理想を突き詰めて、さらに突き抜けようとする人物でした。やる事は度を過ぎているのです。例えば、「母だけでなく兄嫁にも尽くす」「甥を我が子以上に熱心に教育する」「甥の同級生や先生にめちゃ酒おごったりする」「家族をほったらかしにして伯父の大将軍を熱心に看病する」「家の価値あるものは全部人にプレゼントする」「出世してからも謙虚を貫く」「客人にめちゃ気を使う」「不正を働いた息子を容赦なく処刑する」などのエピソードがあります。理想の聖人君子を装うエピソードがちょいちょいわざとらしく、どう考えても異常だと思うのです。が、人々からは「凄い奴だ!」と言われる様になります。その結果、王莽はどんどん出世して、皇帝をも操れる権力を持つようになります。外戚の権力が無駄に増大した結果でもあります。しかし、王莽の異常な上昇志向がもたらしたとも言えます。ここで王莽は一線を超えちゃいます。「せっかくだから皇帝になりたいな」と思う様になるのです。儒教では大逆の考えです。しかし、儒教には「優れた君主はより優れた家臣に権力を譲る」という禅譲(ぜんじょう)という仕組みがあります。これを使って王莽は幼い皇帝から帝位を奪います。そして、漢王朝改め新(しん)王朝を開くのです。新王朝の新王朝ってなんだか紛らわしいですね。しかし、王莽は理想主義が過ぎて現実が見えなくなっていました。「儒教では千年以上前の周王朝最初の周公旦(しゅうこうたん)の時代が理想だったよな。よ~し、政治のやり方をその時代に戻そう」と考えたのです。それじゃ国は大混乱します。だって、「現代で政治のシステムを平安時代に戻しま~す」って言われたら困りますよね。「えっ?関白とか左大臣とかが『おじゃるでおじゃる』とかいいながら政治するの?選挙は?」ってなるでしょう。王莽はそれをやっちゃったのです。国中のあらゆる場所から非難がごうごうと発生します。当然です。そして、「これじゃ国は回らねえよ」という事で各地で反乱が多発するようになりました。反乱を起こした勢力のうち、最大勢力になった緑林(りょくりん)の軍において、劉玄(りゅうげん)が「おれは皇帝だぜ!」と言い放ち、更始帝として即位しました。王莽はますます反乱に怯えます。「そうだ、若さをアピールするために髪の毛やひげを黒く染めよう!」とか「そうだ、元気さをアピールするために若い女子を新しく嫁に迎えてイチャイチャっぷりを自慢しよう!」とか、ピントのずれた行動を行うようになります。こうして王莽は人々から見放されます。新王朝は、哀れあっという間に崩壊して消滅するのです。
2024年 09月 03日
61.前漢末期のおほほ
ミニコラムの続きです。
今回はわたくしが解説をしますわ。おほほ。前漢末期の中興の祖である宣帝(せんてい)がお亡くなりになると皇太子の劉奭(りゅうせき)様が皇帝になりましたわ。元帝(げんてい)と言われますわね。このお方こそ、私の夫でございます。おほほ。元帝様は理想に燃えるお方。御父上の宣帝様は法家のお考えであらせました。しかし、元帝様は孔子が始めた儒教の教えを理想とされますの。だから、国の仕組みも変えようとされましたわ。「むだづかいしない」「飲み会はほどほどに」「狩りも別荘も節約志向で」「税金は減らす」という政策をなされましたわ。素晴らしいでしょ?おほほ。でも、ちょっと理想が高すぎたかもしれませんわね。「専売制をやめる」つまり「国家が独占販売していた塩・酒・鉄を民間でも売っていいよ」という事を許しましたの。でも、そうするとあっという間に国のお金が減るわ減るわ。これは困りますわね。仕方なく「専売制はやっぱやめられないわ」と政策を転換してしまいました。他にも「お金って生々しいからやめようかな」「物々交換に戻そうぜ」とむちゃを言ってしまったのです。その結果、経済を混乱させてしまいましたわ。夫に代わってお詫び申し上げます。えっ?私ですか?私は元帝様の幼いときからのおつきの侍女でしたのよ。元帝様に気に入られて初めてのお相手になりましたわ。そうして、息子を産んだのです。息子は劉驁(りゅうごう)といいます。のちには皇帝になりますのよ。おほほ。皇太子を産んだから、私めは、なんと皇后さまになりましたのよ。嬉しかったわ~。でも、その頃には、元帝からお呼びも寵愛される事も無くなっていましたの。年上女だから仕方ないとは言え悲しかったわ~。夫の愛は、側室の傅昭儀(ふしょうぎ)に移ってしまったのです。あの女が生んだ劉康(りゅうこう)を夫はとても気に入ってしまい、皇太子を変える検討までしましたの。私は焦りましたわ。でも、私は賢い女。元帝様に対しては常に従順な態度でしたの。漢王朝歴代の皇后とは違いますの。ヒステリーなんか起こしませんわ。そして、息子にも「父には従順な態度でいなさい」と注意したの。努力が実を結んで、息子が皇太子を外されることはなかったわ。こうして、元帝様の死後は息子が皇帝になって私が権力をゲットしましたのよ~。おほほ。権力を得たら、私の家族や親戚の王氏一族を次々と取り立てて高位に付けましたわ。今まで我慢してきたから当たり前の事です。そういえば、私には一人不遇の弟がおりましたの。早死にして出世もできずに可哀想だったわ。だから、不憫な弟に代わってその息子の王莽(おうもう)を政府高官に取り立ててあげますのよ。え?わたくしの名前ですか?人は私の事を王政君(おうせいくん)と呼びますわ。おほほ。